No.30
私のオリンピック
オリンピックへの意識
 今年の夏はオリンピックで沸いた夏になりました。4年ごとの祭典に私もついついテレビに釘付けになってしまいましたが、それと同時に自分が出たソウル五輪のことを思い出しました。私が「オリンピック」を意識したのは1984年のロス五輪の時。初めて女子マラソンがオリンピック種目に採用され、佐々木七恵さんと増田明美さんが日本代表に選ばれました。まだ女子は力不足、ということで3人枠がありながら2人しか選出されなかったのですが、実は私が3人目の候補でした。正直、それまではオリンピックを意識していなくて、いきなり候補になり、もしかして出れるかも、と淡い期待を持ったのですが、あっけなく落とされ、その時初めて、オリンピックに出たい、と強い気持ちを持ち、ソウル五輪に向けのスタートになりました。
代表のプレッシャー
 それから4年、紆余曲折はあったものの、何とか念願のソウル五輪の代表になれましたが、代表に決まってから大会まで半年間、周りからの期待の大きさに、嬉しい反面、複雑な心境でした。マスコミの取材はもちろん、所属の会社や母校の壮行会などなど・・・想像以上に色々なことに振り回されてしまった気がします。頑張らなければ、という気持ちが強かったですね。その結果、無理をし過ぎて1ヶ月前に体調を崩してしまい、一時は物も食べれず点滴を受ける日々を過ごし、結局はベストの状態でスタートラインに立てませんでした。
レースの厳しさ
 当時の私の自己ベストは2時間32分13秒、出場選手中28番目のタイムでした。いまいち体調に不安があるのと、代表選考会の時に前半とばして失速したこともあり、積極的なレースができなくて第一集団にはつけず2時間34分41秒25位に終わりました。でも自分では色々な状況も含めて、可もなく不可なくかなと、それほど悪い成績とは思っていませんでした。しかし周りの評価は・・・新聞には「浅井惨敗」の見出し。また女子マラソンは陸上競技の初日だったので、他の種目の成績が振るわなかったこともミーティングの度に女子マラソンがダメだったから志気が落ちた、と言われて・・・肩身が狭かったですね。自分のレースが終わってからも最後まで現地にいなければならず、他の種目を生で見れたことは唯一良かったですが、心から楽しめるわけではなく、早く日本に帰りたい、というのが正直な気持ちでした。
競技者継続のきっかけ
 苦い思い出しかないオリンピックですが、もしロス五輪に出てたら、もしソウル五輪でよい結果だったら、私は走るのをとうにやめていたかもしれませんね。ロスで簡単にオリンピックに出れてしまったら、こんなものかと満足して、その後は競技を続けたかどうか。ソウルでは惨敗のレッテルを貼られ、このままでは終わりたくない、という気持ちが強くなり、その後も競技にしがみついていた一番大きな原動力になりました。私が長く競技生活を続けてこれたのは、やはり「オリンピック」という大きな舞台を目標にできたからだと思います。オリンピックは他の大会とは、やはり重さの違う大会なのだと改めて感じます。
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